投稿記事900がとても重たい記事になったことを・・・・済まなかったと思う! ジャックバウアー風

先日ブログに書いた母が勤務していた『六甲丸』が病院船六甲丸で検索しても出てこなかったので
母の元気な顔を見るのをかねて今日は話を聞きにいってきた
幸い母は同じ町内で暮らしているので、車で数分でいける距離だ。

部屋でお茶でも飲みながら、何気にネット検索で探している事を話す
「ネットで何ぼ探しても病院船で六甲丸は出てこんで!??」というと
「そこに写真があるわ!・・・」と指を刺すので、
指差すところに積まれているアルバムから昔のアルバムを引っ張り出した。

それがこのアルバム

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表紙には真ちゅう製だろうかきちんとしたプレートの周囲に
日本赤十字救護員と書かれ中央には赤十字のマークがくっきりとある

一見なにやら、卒業アルバムのようだが、中には
昭和14年赤十字本社に天皇が来て・・・云々とある
その記念なんだろうか!??
母は笑いながら「乗船記念」とか言っていたが・・・

ページをめくると母が病院船所属時、部隊長だった
佐伯中将の写真が大きくあるが
この佐伯陸軍中将は終戦時B急戦犯で裁判にかけられ
懲役25年の判決を受けた人だろうか!?

さてネットで検索して見つけた『六甲丸』はこちらで

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どう見ても小さな貨客船、いや貨物船といったところか!?
これが病院船になるのかと思っていて、別の『六甲丸』があったのかと思ったが
このアルバムの何ページ目かにそれが写っていた

これが母親が乗って勤務していた『病院船 六甲丸』だ

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写真の横に『第一回病院船 六甲丸』と
そうして写真の下には『宇品港にて』と記してある。
病院船として白く塗りなおされているが
船型、デリックの位置、キャビンやデッキの位置、煙突など
同じ船と思って間違いない。

先日ネット検索で病院船を探していることを母に電話し
一度行くわと言っていたら、今日のためにかメモを書いてあった。
そのメモに昭和14年8月14日 菊池部隊 六甲丸 とあり
アルバムの中に出てくる母の写真の制服の胸にキクチと刺繍があることから
この年、この船に乗っていたのだろうと思われる。
昭和12年に盧溝橋事件があった訳で、昭和14年となると
それから北へ北へと戦渦が広がっていたのだろう

「それでこの船でどこへいってたの?」と聞くと
「中国のあっちこっち」っといい
「この船で重慶までいったわ~、これでね、揚子江をどんどん登っていくんよ」
「あっちこっちよっていくから何日も掛かったわ~」と思い出話
北は昨年のオリンピックではなでしこジャパンが活躍した舞台泰皇島らしく、
オリンピック見ていたときにはぜんぜん気にしていなかったのですけどね。

その泰皇島での現場写真があった
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担架に乗せられそれを吊り上げているのは本来荷役用デリックだろうか!?
ここで写っている写真などいい所ばっかりで実際は現場はそれは悲惨だったろう

船内(どの船かは不明だが)も貧祖なもので、船倉に雑魚寝のような状態なのだ
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映画で見る戦時中の病院などのシーンはやはり綺麗過ぎると思うね!
あんなのありえない!!

病院船といっても実際は小さな貨物船でデッキにテント張りのようなもの
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母の従軍は実はこれからが大変だそうだ

車の記事を期待されているかもしれないが
この記事を数回に分けて書こうと思う。

情けない政治家、それしか選ばない、選べらないこの頃
二度と同じ間違いを行わないように、自分たちがしっかりしないといけない
その為にも書いておこうと思う。